一体化された3つの悦び (アンジェラ・ヒューイット ピアノ・リサイタル)

当代一のバッハ弾きといわれるアンジェラ・ヒューイットのその集大成ともいうべきバッハのリサイタルシリーズ《バッハ・オデュッセイ》。そのリサイタルのパルティータ全曲演奏会第一夜に行ってきました。

バッハを聴く悦び、そしてそれはピアノフォルテという楽器を聴く悦びでもあることに気づかされ、そしてその二つがヒューイットというピアノ弾きの創造の世界に聴き入る悦びへと繋がり、それら全てが一体となって無限の宇宙へと誘われていくという素晴らしい体験でした。

パルティータの第1番は、とても心優しい曲。パルティータ6曲のなかで『いちばん聴きやすく、多くのピアニストが最初に試みる曲』であり、優美で若々しい軽快さがあって優美な活気のある曲。そういう演奏として、私は、ピリシュ盤をとても愛してきました。

この夜のヒューイットを聴くと、そういうピリシュの優雅さと平易さというところから、ペライヤの、柔らかくて温かな心優しい演奏により近づいた音楽のように感じます。

けれどもそういう平易さや優美さを超えて、バッハがこの曲にこめた舞曲としてのリズムの跳躍と和声のステップとの実に雅やかな融合に心躍らされるのです。その左手の指がつむぐ和声のステップの何と心地よいこと。

ヒューイットはすでに1997年にこの6曲全曲のCDアルバムを収録しています。

イタリア製の新興ピアノメーカーであるFAZIOLIを愛用していることでも知られ、リサイタルにもホール備え付けのピアノではなく必ずファツィオリを持ち込んで弾いています。20年前の録音では、まだスタインウェイを弾いていました。そのことを如実に感じるのは、生とCDの違いというだけではありません。スタインウェイに較べても、明るく透明度が高く、何よりも立ち上がりが早く低域の中域と同質で共鳴持続が長い。CDよりもより平明で、なお精密なバランスを完璧に保ちながらも宙を舞うかのような自由な飛翔を感じるのです。

第2番は、まるでバッハの「悲愴ソナタ」。実際に、調性も同じハ短調です。そういうドラマチックな曲が、アルゲリッチにぴったりで、私はこの2番というとアルゲリッチのディスクを取り出すのが常です。

開始のシンフォニア序奏部“グラーヴェ、アダージョ”最初の劈頭の主和音は、ファツィオリの透明感を割り砕くような強烈な打鍵で度肝を抜かれました。こんな激しい開始はアルゲリッチでさえやらなかったことです。強さの中にもアルゲリッチよりもずっと端正な響きを期待していた私はほんとうに驚きました。続く“アンダンテ”からのリリカルな美しさへの転換が鮮やか。ここでも左手のコード進行の歩みが際立ちます。これこそファツィオリのもたらしたヒューイットのバッハなのだと思います。その魅力は最後のカプリッチョの跳躍に至って爆発的に現れます。はバッハという人の宗教曲とは対照的な世俗曲の手放しの人間への謳歌のようなものを体感する瞬間です。

休憩を挟んだ第3曲目の「ソナタ」は、実は、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番をバッハ自身が鍵盤用に編曲したもの。その独特の音色にはっとさせられました。どこかバロックヴァイオリンを想わせるような、渋い木質の柔らかな音色は同じ楽器とも思えぬようなもの。ヒューイットは、ノンペダルが主流となったバッハ演奏には目もくれず、積極的にペダルを使用します。足元が見えない角度だったので確認はできませんでしたが、ソフトペダルでコントロールしているのでしょうか。ヴァイオリンの難曲への尊崇が込められた深みのあるソナタでした。ヒューイットは、この曲だけはiPadの電子楽譜を譜面台なしでピアノに潜ませて弾いていました。もしかしたらヴァイオリン用の原譜だったのでしょうか。

しめくくりは第6番と並ぶ大曲である第4番。一夜を締めくくるのにふさわしい壮麗な大曲です。

私は、かつてFM放送からエアチェックしたワイセンベルクの演奏がどうしても耳に残っていて長年そのオリジナルを探し続けていました。正規録音でも再発盤ではなぜか欠落している第4番ですが、それが突然のように海外の海賊盤のようなライブ録音を発見。私がエアチェックした演奏ではないのですが、最近はこればかり聴いています。

第4番の魅力は、壮麗で輝かしいまでの豪華絢爛さ。オーケストラを編曲したかのような豊穣な響きを湛えているフランス風の序曲とそれに続く協奏曲ふうのフーガ。まさにワイセンベルクの硬質でブリリアントなヴィルティオーソスタイルがふさわしい大規模な鍵盤曲です。

ヒューイットは、そういう壮麗さでもワイセンベルクを超えるような音色の綾とトリルやフランス風の二重付点音符、アルペッジオの豊穣な響きが鳴り渡り、思わず陶然とさせられます。続くフガート部でしばしば挿入される上行・下降スケールに思わず半分腰を受けさせてしまったほど。

続く アルマンド は綿々としたカンティレーナ。明晰な美しい粒立ちの歯切れよい触感と、肉声やオーボエを思わせる息の長いレガートが融合したフレージングは奇跡のよう。これも軽く繊細なタッチのファツィオリなればこそなのでしょうか。しかもくり返しでのタッチや強弱の綾が素晴らしく、ピアノという楽器を聴くことの愉悦がバッハの音楽を聴く愉悦と混然となって迫ってきます。

コンサートのクライマックスへと歩みを早めていくヒューイットのピアノには、彼女の確固とした正確な時の刻みがあってその疾走感でほんとうに聴き手を真っ白に燃え尽きるまで魅了させるものでした。

アンジェラ・ヒューイット ピアノ・リサイタル

2017年9月13日(水) 19:00

東京・四ッ谷 紀尾井ホール

(1階11列16番)

J.S.バッハ

パルティータ第1番変ロ長調BWV825

パルティータ第2番ハ短調BWV826

ソナタ ニ短調BWV964

パルティータ第4番ニ長調BWV828

(アンコール)

平均律クラヴィーア曲集第2巻より第9番 ホ長調 フーガ BWV878